2006年 10月 30日
第9回 11月 食のブランド主義 |
case study04
「spiritual foodは美味しい」酒井礼子
都会の雑踏の中でも、ひっそりと開け放した窓の向こうには、手の届きそうな位置にイチョウの葉が秋風にゆれている、忙しい日常から遊離させ、心地よい休息の時を与えてくれている。まだ色づくには早いイチョウの葉を眺めながら、毎年晩秋の頃に、母が外苑のイチョウ並木で銀杏を拾い届けてくれることを思い出す。忘れてしまうほどの事だけれど変わらぬ年中行事だ。その銀杏を丹念に炒り、ホクホクの実に塩を振り、たあいもない会話をしながら頂くのである。そんなほんの少し先の情景を思うと、幸福感でいっぱいになった。つい先程まで山積みの仕事に神経を注いでいた自分が滑稽に思えた。頭の中は銀杏を食べている映像にどっぷりと吸い込まれていく。
次の瞬間に、人生の哲学を噛み砕いて説いて下さる、私にとっては父親のような人の言葉を思い出した。「幸福とはその人の心の内にあるものなのだよ」どんな苦境に遭っても自分の心が幸不幸の決定を下すのだ。
そして友人がくれた言葉を思い出す。自宅で夕食会をしたときに、「今日は本当にありがとう、美味しかったご馳走様でした」ところで「ご馳走」の意味を考えたことある?ご馳走と言うと豪華で贅沢な食事と言う風に思いがちだけど、読んで字の如し ご馳走→駆け回り食材を集める→その行為が受け取る側に幸福を感じるって事だと思うの。
食物は口の中に含むまでどんな行程を辿ってきたかが直ぐに感じられてしまう。食材を生産する人、料理をする人のエネルギーが真に正直に表れてしまうものだ。誰かを思いながら、又はこんな仕上がりの味に…という風に、気を入れて作られたものは、お惣菜売り場のおかずとは比べようもないほど違う。炒り銀杏にしても、一つ一つ母が選別しながら恵みに感謝した行為、ゆっくりと炒った温もりは、居酒屋の銀杏とは違って当たり前なのだ。一日に一度ささやかな幸せを見つけるようにしているのですが、これはこれで注意力と純な心が必要で、このアンテナを磨いていないとすぐに錆付き、暗く憂鬱な日を過ごすことになる。
本屋さんに溢れかえる食の情報誌、テレビでは一日中「〇〇店の〇〇料理」なる企画番組ばかり。そのお陰でレストランや料理屋がブランド化されている。東京における飲食店の数もさる事ながら、新しい食を求める消費者のために、料理人たちは日夜、創作料理を提案しつづけている。今や食はファッションと同じように、
1:老舗ブランド
2:新鋭ブランド
3:大衆向けプレタポルテブランド
4:大量生産型ファーストフードブランド
など、誌面やメディアが提供しつづけるインフォメーションが、知らないうちに記憶として残ってしまう。日本が不景気に突入して早10余年、バブル景気で奢った舌は、食への飽くなき探求を押さえきれない。贅沢食から斬新な創作食へ移行していると言えるだろう。まったく日本人の食に対する貪欲さは世界でもトップクラスであろう。しかし、世界各国の味を堪能できる東京は「何でもあって何にもない」ところだ。そう言う私も無類の新らし物好きでブランド主義者の一人である。ブランド主義者がなぜこんなにも多いのか、それはブランドが与えてくれる安心感、満足感、品質、クラス意識などを、非日常へと導いてくれるある種の錯覚なのかもしれない。(平成十四年十一月)
club king、mother dictionary、case studyより引用!
by reiko_sakai
| 2006-10-30 14:11
| 食